2010/9/1 由理子の9回目の祥月命日のケーキ |
お経をあげる時の心得 経文は仏の言葉であり、その言葉には人を悟りの道につかせる 高い光が宿っているのです。お経を上げることにより霊魂は慰めとなり、 清める事になりますので、あげる人の心のあり方が大切になります。 愛も無く、仕方なしに、周りの人とのかかわりで、唱えたり、 ただただ習慣的にあげているのでは、お経の持つ高い光やお経の効果 が低くなってしまいます。お経のもつ高い光やそのひびきは、業因縁を超 えて波動の違う霊界にまで届くのですから、 経文をあげる人が経分に集 中して心を空にして経を誦むとその空の中にお経の光がいっぱいになり、 その人と因縁のある霊魂にひびいて霊魂を浄めることになるのです。 僧侶に誦経してもらう時は、その僧侶の人格の高さ、悟りの程度と、 施者の愛念の深さによって、そのお経の功徳の現われ方が違ってくるそ うです。 五井昌久著より一部抜粋 人生とは何か 人生とは一瞬一瞬の連続であり、一瞬一瞬を如何に生きるかである。 又人生とは選択である。すべての人類皆人生とは選ぶことである。 その選択を間違わずに出来るか否かによって人生が楽しくも、暗く不安の 人生にもなるのです。選択を間違ったために自らの病気、不調和、結婚に 失敗し子供の教育に心配が起こるのです。 たった一つ 右か左かの選択を誤ったためなのです。 右の選択は霊なる選択であり直感・ひらめきです。 左の選択は欲望、自我感情想念です。 私たちは右か左か常に選択をせままれて、今日一日が始まります。 例えば今日はどの仕事から始めよう、しばらく会っていない友達にも会いた い、買い物もある等など目の前にぱーっと瞬間ひらめくその時どれを選んで も自分で選んで自分で決めているのです。毎日の一瞬一瞬何を選んでいる か によって、自分の人生が決まって来るのです。 自分で選んで自分で決定し、自分の道を歩んでいるのです。 他の人が選択し決めた道を歩いているのではないのです。 直感・ひらめきはどうして表れるかそれには、毎日を守護の神霊に感謝して 人に優しく無限なる愛・無限なる平和という想いで生きて行く事です。 自然と人生も良くなって行くのである。自我欲望の想いや考えを中心とした 選択は神の御心と離れてしまって結果が良く行かず、あれこれ問題が出て きたりすっきりいかないのです。 又あの人にああ言われたから、あの時は仕方が無かったと言って人のせい に しても、それを選択したのは自分自身であって、 人のせいで結果が悪くなったのではないのです。 人のせいにする事は止めましょう! 祈りと共に 祈りのある生活とは神仏と自分と共に生活を続けている事である。 神仏を認めるから祈りが出来るのです。 神というと神を嫌って神を認めない人もいますが、神によって生かされていて 神の恩恵を毎日頂き生きている事に早く気づく事が必要である。 祈りをしているといつも神仏につながっていて想いが神仏の中に入ってゆく のである。こうした日々祈りの中で生活をしていると人生が変わってくるので す。 不安がなくなり、勇気が湧き、生きがいが生まれて来るのです。 これは各自の守護の神霊さんのお導き、ご守護からなのです。 不安のない生きがいのある生活が出来ることの喜びを素直に守護の神霊 さんにいつもいつも感謝する事です。 深い祈り心で日々の生活を送っていれば、いかなる事が生じようとも乗り 越えて行ける。祈りのない生活では安穏と暮らしてゆく事はできない。 死んだらどうなる 死んでしまったらもう終わりだ、という事はないのです。 死後というより、この五感に感じられない世界が確実に存在している。 それは大きく分けて、幽界、霊界、神界という世界が、肉体界と異なる世界として あるのです。肉体が亡くなった後の人間は、想念のままの世界で思ったことは すぐ現れる環境で生活をする。 けんかばかりしていた人は同じ思いの人と、常にやさしい思いで生きて 来た人はやさしい心の人が集まっている世界で自分の死後の生活が始まる のです。 、 死後の世界は実にはっきり現れていて、つまり、地獄といわれる世界ではその人の 生活は、苦悶の中で行じられ、今迄の悪想念所業の誤りを悟らせられるのであります。 唯物論者のように、肉体界の物の面にばかり想いを固執していた者は、その想いが 神の存在を認めぬ以上は、想念が形の世界、物の世界にこびりついていて、 心が自由自在な楽な境界には出られないのです。 彼らは、いつまでも物の世界で争い合い、傷つけ合い、いがみ合って生活するより仕方 がないのです 神の存在を信じ、しかも、神の慈愛の現われとしての守護神の存在、先祖の子孫への 愛の現われとしての守護霊の存在を信じる者、そして、神霊への感謝の想いに生きる 者は、死後も守護神・守護霊が常に守り導いて下さっているのです。 五井昌久著 より一部抜粋 神事、仏事の好き・嫌について それは、すべて過去世の因縁によるもので、神詣りが好きだから、 その人が立派であるとか、宗教団体に入っているからその人は清いとか、 簡単にはいえない。宗教団体に入らなくとも、神詣りしなくとも、立派な人は たくさんいる。立派といわれる人は、すべて自分の良心に忠実であり、 愛の心の深い 人である。自己利益だけの 宗教入りや、神詣りより、そうした ことをしなくとも、愛の心で、他人のために尽くしている人が、よほど、 神の心に適うのである。神とは愛の心であり、良心であるから、愛の心に とぼしく、良心にそむいているままの心で、神詣りしたとて、なんにもならない。 愛の心が深く、良心に忠実で、いつも神仏に感謝している人が 一番立派であり、それが自分の幸福になるのである。 五井昌久著 神と人間 P135〜136 覚え書き目次へ ホームへ |